詩・その他


by superkavi

叡智と知識


 キリスト教の異端と呼ばれたグノーシス。その文献として重要度の高い「ナグ・ハマディ文書」。岩波文庫から翻訳がでているが、その中の「説教・書簡」(ナグ・ハマディ文書Ⅲ)の「グノーシス主義と説教」という解説に、面白い話が載せられている。
 アレクサンドリアのフィロンの著作『律法書の寓意的解釈』からの引用として、次のような文章になっている。
「さてわれわれは次に探求しなければならない。なぜアダムは他のすべての被造物には名前を付けたのに、自分にだけはそうしなかったのか。われわれはこの問いにどう答えるべきだろうか。われわれ一人一人の中にある叡智は他のものを把握することはできても、自分自身をそうすることができないのである。ちょうどわれわれの眼が他のものを見ることはできても、自分自身をそうすることができないのと同じで、叡智は他のものを知解しても、自分自身を摑むことができない、叡智に言わせてみたまえ、彼は何であるのか、どんな性質のものなのか、霊なのか、血なのか、火なのか、空気なのか、あるいは何か別のものなのか。からだのようなものなのか、あるいはからだを持たないものなのか。(叡智は答えることができないだろう。)だから、神の本質を探求しようとする者たちは、あまりに素朴過ぎるということにならないだろうか。なぜなら、自分自身の魂の本質を知らぬ者たちが、いかにして全世界の霊魂について正確なことを知り得ようか。全世界の霊魂とは神のことであると考えられる。だから、アダム、とはすなわち叡智が、他のものに名前を付け、それらを把握するのに、自分自身には名前を付けないのは当然のことである。彼は自分自身と自分の本質を知らないのだから。」

 これと同じようなことが、仏教の思想4「認識と超越<唯識>」(角川文庫)に述べられている。
「暗闇の部屋に灯火を点ずれば、それまで見えなかった壁・天井や机・椅子などの対象が照らし出される。それと同時に、われわれは灯火自体をも見ることができる。灯火は対象を照らし出すと同時に、自己自身をも照らすのである。知識にはこの灯火と同様の性質がある、と唯識学派は言う。
 天秤量の一方の皿にのせた分銅は、他方の皿にのせた物体の重さを量るはたらきをする。しかし、分銅の正確な重さを知るためには、それを他の分銅によって量らなければならない。分銅の重さは分銅それ自体によっては知られない。すなわち、分銅は他のものの重さを明らかにするが、自己自身の重さを明らかにはしないのである。知識を灯火よりもむしろ分銅と同じ性質のものと考える学派もある。」

 この分銅の話は、前述の「叡智」の話と同じである。それに対し、仏教の唯識学派は、自分自身をも照らすのだ、といささか違う見解をもっている。
これは「空」を主張した「中観派」の主張だったと記憶しているが、灯火が闇を照らす、という場合、灯火が自身を照らすというなら、灯火の中にも闇があることになってしまう。灯火はいったい、何を照らすというのだろう・・・という記述も見た。
 
 フィロンの著作においても、インド哲学の主張する「分銅」の話も、言っていることは同じであって、洋の東西で同じ発想をもつのは偶然ではあるまい。人間の思考を突き詰めていけば、最後は「不可知」に行き着いてしまう。その「不可知」の先にあるものが「仏陀たちの認識の領域だ」と唯識学派の連中は言う。
 我々は、この宇宙の始まりも、人間の始まりも、自分自身が母体にいるころのことも、知りはしない。母の胎内にいたことを知っているのは「他者」によって教えられるからである。
他者性こそが、「人間」存在とも言える。恋をして相手を思う。それが唯一の相手であれば、比較する対象がないのであるから、「恋」という認識すらないのかもしれない。アダムにはエヴァしかなく、エヴァもまた、アダムしかいなかったのだから。このDNAの螺旋構造のような二人が人類のはじまりかどうかは知らない。
 我々は、とかく「比較」しがちである。認識の対象が多ければ当然のことであろう。しかし、仏教においては、それは「分別」(ヴィカルパ)ということになり、それは「業と煩悩」の生じる原因となる。たしかに言われるとおりだ。あの人が好きといい、別の相手に目移りしては、この人こそ本当の、だと軽々しく思う。どこに真実があるのか誰にもわかりはしない。「比較」がはじまるということは、美点や欠点、善や悪、という概念も生じてくるわけで、「あの人は、お金持ちで」とか「金のない男なんて」「優しかった」だの「冷たい」だの「男前だ」の「不細工だ」の、吟味が行われてくる。
 
 叡智、あるいは知識とは何であろう。出会った二人が罵り合って生きていくことではあるまい。お互いが欠点をもち、そして何かしら美点をもち、やがて老いて朽ちていくだけの存在であることの悲しみを分かち合い、その世界で共に生きて支えあう存在であると知ることも、「叡智」なのでないだろうか。
灯火はやがては消えてしまう。そこには再び闇が生じ、無明の世界が出現する。照らされた世界で罵りあうことの不毛さを思うと、絶対の静寂をもたらす闇の優しさを知ることも「叡智」と呼べるかもしれない。

 五蘊盛苦、すなわち人間存在である苦、ということを知ることが叡智であり、そこから生じてくる「他者性」を慈悲と呼ぶ。存在の悲しみを分かち合うことが出来るなら、人はもっと優しくなれるだろう。
 愛する人を見る事は、また、自分自身の姿を見ることになるとも言う。物欲が強ければ、それを満たしてくれる人、苦労人ならば、苦労をともにできる人。
 好きな服と似合う服が違う、ということはある。「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」とは孫子の言葉であるが、まったくもって正論である。しかし、それを「知る」ことが難しい。

 法然が念仏を広めたとき、「往生極楽をまめやかに思い入りたる人のけしきは、世間を一くねりうらみたる色にてつねにはあるなり云々。」と言ったらしい。また、「小児の母を頼むは、またく故を知らずただたのもしき心ある也。名号を信教せんことかくの如し。」ともいったようだ。往生極楽を思いやる人は、世間を白眼視するようでなければ、まことの往生はない、というようなことであろう。小さい子供が母を慕うことも、同じことで、ただ、母を慕う、という気持ちがあるだけである。
 誰かに恋をしたときに、他の異性がつまらぬものに見えたとき、それは誠の恋と呼ぶことは出来よう。痘痕も笑窪でなければ、誠の恋とは呼べない。
 いろいろと分別から迷いが生じ、他の異性に眼が移り始めるのは、もはや打算や比較も働いているのである。人間であり、生物である以上、生物として快適に生活できる環境を選ぼうとするのは、仕方のないことかもしれない。
しかしながら、それは分別、全一の世界からあれこれと分けてしまい、迷いを生じさせる世界を作る。それを知ることが叡智であり知識であるのだけれど、そこから、全一の世界にもどるには、信心、すなわち「思い込む」ということが必要になると思う。知り、そしてそれを越えていく。最後は叡智も知識も越えて、認識を具現化するための生き方。
「愛するということは、愛し続けること。信じることとは、信じ続けること。」とは歌手の谷村新司さんの歌の歌詞であるが、最後はそれしかないのではないか。
もっとも、相手の意思は尊重せねばならない。押し付けはまた、己の蒙昧な心の産み出した煩悩なのだから。
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by superkavi | 2007-06-11 13:24 | 思考の断片