詩・その他


by superkavi

呻き(うめき)~旧ブログの記事から~


 故・梶山雄一先生の著作に「般若経」(中公新書)というのがある。個人的には、その本の序章12ページくらいが、私にとってもっとも価値のある部分なのであるが、梶山先生の文章力というか、感性と言うか、そういうものがもっとも発揮されるのが、そういった、本論より少し離れた部分の、心情の吐露のような部分である。

 ここでは、唐末の禅僧・玄沙師備の出家にまつわる話が初めに取り上げられている。宋の大慧禅師の説法(普説)の中にある話によれば、玄沙は漁人であり、毎日、父について魚を捕ることが仕事であった。彼は心中、それを好まなかったが父の為にやむを得ないと思っていた。ある日、父が脚を滑らせて水底に落ちる。慌てた玄沙は父を助けることが出来なかった。そこで、彼は出家して無上道を学び、父を助けねばならないと発心する。その願いの通り、彼は心の根本を悟って大寺の住職となり、法を説いて人を導いたという。後年、ある男が死んで冥界に行くと、『玄沙の獄』と書かれた大きな獄舎を見る。そこで男は看守に訪ねた。すると看守は「父が溺れたのを助けることも出来ないで、不幸の罪を犯したために、わざわざ獄舎を作って、彼が落ちてくるのを待っているのだ。」と答えた。ところが、この玄沙は、とっくの昔に死んでいる。そのことを男が看守に「とっくに死んでいるのに、どうして来ないのです。」と訪ねた。看守は「わからぬ。」と答えながらも、逆に男に、玄沙が生前、どのような仕事をしていたのか聞いた。男は「わたくしの先祖の話によると、かれは出世の法を悟って、無数の人々を導いたそうです。」それを聞いた看守は、手を己の額に当てた。たちどころに一陣の風が吹いて、この獄舎は姿を消したとある。
他に梶山先生は、作家の杉本苑子氏の書かれた文章も紹介している。そこでは、玄沙は父を助けることが出来なかったのではなく、この機を逃せば出家の道はない、とばかりに父の為に差し出した竿を手放して、父を見捨ててそのまま雪峰山に走り登って出家落髪してしまう・・・という話を載せたあと、杉本氏のコメントを続けてこのように引用して、杉本氏のほうに軍配を上げている。
「ああ、人間とは、これほどまでにしなければ一大事に向かって、自己を駆り立てることが出来ない弱いものなのか。言語に絶するこのような無慙を、焼きゴテの強烈さで記憶の底に印しなければ、不退転の金剛心を持続しぬく自信を、持ち得ないほど・・・それほど、悲しいものなのか。」

 その玄沙の話のあとに、今度はジャータカ(本生話)と呼ばれる、お釈迦さんの過去物語の中の「ヴィシュヴァーンタラ・ジャータカ」と、それをモチーフにした、倉田百三の戯曲「布施太子の入山」を取り上げている。もともとの「ヴィシュヴァーンタラ~」のほうは、資質優れる太子が、布施をその使命としていて、請われるままに敵国の息のかかったバラモンに、自国の至宝でもある、敵を必ず粉砕した大白像を布施してしまう。怒った国民は王に訴え出て、王もしかたなく太子と妃、そして二人の子供を放逐する。その後も、太子は請われるままに、子供を布施し、最後は妃までも、あるバラモンに布施してしまう。そのバラモンは、実は帝釈天が化けて、太子を試すための姿であって、帝釈天は太子の徳を讃えて、八つの望みが叶うようにしてくれる。そこで太子は、国王に許されて帰国すること、妻のみを愛して暮らし、布施に励んでも自分の財が尽きることがないように・・・・といった願い事をする。子供達も国王に助けられて、太子を迎えに来て、この話はめでたしめでたし・・・という話である。このときの太子が、お釈迦さんの過去世であり云々という解説がつくが、まあ、それはどうでもよい。
 倉田百三の「布施太子の入山」は、最後の部分が決定的に違う。妃をバラモンに、請われるままに泣く泣く布施したあと、一人慟哭する太子のもとに一人の騎馬兵が来る。母国からの急を告げる使者であり、かつて太子が布施した大白像を戦闘に立てて、敵国が侵攻してき、国軍は潰走、祖国は阿鼻叫喚の巷となり最後の迫った国王夫妻と人民は太子の帰国に一縷の望みをつないでいる・・・と言って使者は訴える。しかし、太子は「俺は不滅の国を求めてゆくのだ・・・俺はあの山に行く!あの山こそ俺が拠って以って魔軍を防ぐ法城だ!」と叫ぶ。以下、引用してみる。
『騎馬兵は無限の怨嗟を含めて「おゝ鬼人よ聞け。而して左右に命じて記録せしめよ。葉波(シビ)国の太子須大拏は祖国を滅ぼし、父母を殺し、人民を売ったのだぞ。俺は最後まで闘おう。先祖の墳墓を枕にして死のう。」といって馬を鞭打ち、豪雨をついて退場する。太子は雨に打たれながら立っているが、やがて枯れ木のごとく卒倒する。雨がにわかにやみ青空が現れ、帝釈天があらわれて「善哉、善哉、太子。須大拏」と賛じ、侍童たちが「一人出家則九族生於天」と歌う。太子はよみがえり、「今のは幻であったか。あゝ聖なる、聖なる御姿よ。嵐は去った。おゝ俺は試みに勝ったぞ。勝ったぞ。・・・・・祖国よ。父母よ。妃よ。子よ。人民よ。須大拏は汝等をこの世界の誰よりも一番深く愛したのだぞ。・・・・・・俺は汝等を悉く救い取らずには置かないぞ・・・・・・そうだ。一刻も早く壇特山へ」といって、そのとき迎えにあらわれる鳥や獣に導かれて聖山へおもむく。』

 この「布施太子の入山」という戯曲が言おうとしていることは「一人出家すれば九族天に生ず」という、仏教で使われるそらぞらそしい成句ではなく、「一人が出家すれば九族が滅ぶ」という現実である。梶山先生も書いているが、たしかに一人が出家すれば、九族が天に生ずるかもしれないが、反対に九族が悉く滅びてしまう可能性もある、というどうにもならない現実にこの太子は呻き、やがて失神する。妃や子供、祖国や人民を捨てておいて「世界の誰よりも一番深く愛したのだぞ」と叫ばれても、捨てられた側にとって、これほど説得力のない台詞もあるまい。どちらが正しいというのではない。太子は失神してしまうほど真剣に悩んだのであり、捨てられた方の身になっても、太子のとった行動を怨むのもこれまた人間としては当然のことであろう。倉田百三という人は恐ろしい。人間の解決できない問題が、当然のようにそこにある。
少し長くなるが、再び梶山先生の文章から引用する。
『しかし、この物語が描いてきたことは、一人の出家のために九族が滅びる現実であった。布施という犠牲的精神を完全に実現しようとすれば、おのれ自身のみならず、もっとも親しきものたちを犠牲にしなければならず、祖国や父母や妻子や人民をもっとも深く愛することは、そのすべてを見捨てることであった。
 聖なる世界、宗教の示す徳目はつねに世俗における絶対的な矛盾による呻吟(うめき)を要求する。ひとへの慈悲のために施与をつらぬくことはひとからすべてを奪うことであり、ひとへの愛を末通らせることは人を殺すことである。布施太子も、そして玄沙師備も現実のその局面に立っていた。祖国が敵軍の侵入によって阿鼻の巷だ、と聞いた布施太子は、三界は火宅だと叫ぶ。それは遠い祖国ではなくて、おのれ自身が燃えさかる炎のなかでのたうっていることである。布施太子は失神する。
 父親と毎日殺生に通う玄沙師備の心のいたみはしだいに堪えがたいものになってくる。魚を釣るという、なんでもないことが、仏教に志し、出家を思う玄沙にとっては生死の一大事である。釣られた一匹の魚が苦しげに尾ひれで水面をたたくとき、それは父親が苦悩する姿であり、おのれが溺れる苦しみでもあった。玄沙はおのれの呼吸がつまり、おのれの身体が水にのめりこんでゆくのを感じた。玄沙はいちもくさんに逃げ出す。おのれの世界を襲ってくる怒濤から逃げ出してゆく。しかし、どこまで逃げても逃げおおせるわけではない。玄沙も溺れ死ぬ。
 解きほごせる問題ならばなんとでもしよう。世界が燃え、世界が溺れているときにひとは失神するよりほかに何ができよう。それはもがいても、もがいても、魔の口につかまえられた足がほどけない悪夢に似ている。どうにもならない。突如としてひとは夢から覚める。覚めて、いまのは夢であったか、幻であったか、とつぶやく。矛盾が解けたというわけではない。目覚めたときに消えただけである。』

 我が身を省みても思うことである。本当はサラリーマンとかに普通になれるなら、家族にとってはそれが一番よかったのかもしれないと自分でも思うことがある。大学生のときも、院に進み学者になろうかと真剣に悩んだ時期もあった。恩師にも相談した。学者になろうとしても、それで食える保障は無い。昔に比べて空きのポストも殆どなかった。そのころよく恩師と話したが、学者崩れは、食ってゆくのが大変である。それだけではない。中身がなくても教授という名前には世間は跪くが、無位無官のものには、たとえ才能があったとしても関心は示さない。私の先輩の多くの人が、博士課程に進みながらも仕事がなかった。
 最終的にそちらを諦めて世俗に戻ることにしたものの、性分とは変えられない。今の手技療法の世界に入った。人生とは不可思議なものである。自嘲するより他はない。そこはそこで自分で食っていかなくてはならぬ道であった。僧侶であった恩師が「僧侶という仕事は、人間のすることとしては最高だが、仕事としては最低だ。」と私に零したことがある。助教授に・・・という話があったときに、恩師は「自分は寺で食っていけるから、後輩にまわしてやってくれ。」と言った。高尚な人格を物語る話なのであるが、奥様はやっぱり助教授になって欲しかったようである(それは、世間体という部分が大きいようである)。恩師とて学者の端くれだから、教授職に未練がないわけではない。それに「嫁さんや家族のことを考えたら、助教授になるほうがいいのだろうが・・」と零したこともあった。ただ、その眼差しが遠くにあるということであろう。
 資格や教育というものは、食ってゆけることを保証しない。公務員や組織の力で食える仕事であるならばともかく、個人の能力では、たとえ人の3倍働いたり勉強したりしても、人の半分の報酬すら手に入らないこともある。それがたとえ人間のする仕事としては崇高であっても、食えなければもはや世間には認められない。人間である部分と社会人としての世俗の部分との狭間の苦悩。目指す目標が「崇高だ」などと言われても、金が無ければ見向きもされないのが日本であるし、また、万馬券に全財産をかけるような、そんな女も少ないのは事実である。こういう女は馬鹿であるかもしれないが、かわいい女だ。しかし、ほとんどが金銭的な理由から、生き方を変えざる得ない人があり、また、愛する人が離れていったり、こちらから切り捨てねばならぬことがあったりする。「玄沙の獄」が、彼の生きかたを聞いた時に、一陣の風と共に消えてしまったというのは、地獄の責め苦すら、玄沙の苦難の道を前にすれば生ぬるいからである。梶山先生が杉本版に軍配をあげるのは、父を見捨てた玄沙であるからであろう。
 梶山先生も、自らの著作で戦後の混乱期に、いっしょにいて欲しいと懇願する母を見捨てて京都大学に復学したことを、2回も書いておられる。それほど梶山先生にとって、その行動が苦悩を伴うことであり、また、心の傷になっていたということであろう。幸いにして、梶山先生は学者として大成した。それは先生の才能と努力の賜物でもあるが、背負った重荷の重さと苦悩が、先生をして玄沙や布施太子の話などを書かせているのだと思うし、また、私の心を打つのである。
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by superkavi | 2007-06-18 12:49 | 思考の断片