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詩・その他


by superkavi

言葉


 「愛の対義語」について、それぞれが語っているトピックスがあった。それこそ「情」であるとか「恋」であるとか、「憎」であるとか、「不安」、「無関心」というものまである。
 対義語ではないけれど、一頃は「永遠の愛」だの、「純愛」だの、「本物の愛」だのと、そんな単語が飛び交っていたサイトもある。

 インド佛教における「空の思想」の大家、ナーガールジュナは、言葉とその虚構性によって世界を構築してしまう人間の思考的な弱点を、その著作において力説しているが、上記にあげたような命題がもっともそれを端的に表していると思われる。
 言葉の形而上学と言い換えてもよいが、言葉によって、現実から遊離していくということである。

 「愛」は愛であって、他のものではないとするならば、何をもって対義語と呼べるのか、ということには答えはない。それはこのトピックスでもちゃんと指摘されていたことであり、それをわかっての思考の遊戯であるのだが。
 言葉ではなんとでも言えてしまう。それは虚構であるからだ。問題は「その虚構を現実と勘違いする」ことから起きる。

 「永遠の愛」という言葉を例に取ろう。
 「永遠の」とつけた時点で、人は何を連想するかといえば「永遠でない愛」である。「純愛」と口にすれば「純粋でない愛」である。「本物の愛」と口にすれば「偽物の愛」と、このような対比を生む。
 愛は愛であって、それだけのものだと仮定した場合、そこに「永遠の」がつくことの可笑しさをどれだけの人が気づいているだろうか。「永遠の」ということと「愛」ということは、別の問題である。「純粋な」ということも、「本物の」ということもそうだ。
 「永遠」ということばそのものが、人間の世界にはありえない現象であるにもかかわらず、言葉の上でそれを作り上げると、そのようなものがあると錯誤してしまう。
 「純粋」を消してしまえば「不純」も消える。「本物」という言葉を消してしまえば「偽物」も消えるのに。人は言葉で分別して、そして本流から外れて、己の思考に埋没していく。

 「愛」というものは、言葉である。それは何にでも貼り付けることのできる代物である。そしてそれに何か別のものだって貼り付けることができる。
 そのことと、現象世界の有様とは、別の問題である。
 言葉というのは、コミュニケーションツールであるけれど、それを絶対視してはいけないということだ。永遠を誓っても、人間は簡単に離婚したりする。愛しているといった翌日には「死ねばいいのに」と言ったりする。
 「言霊」というもの、それを作用させるものが本当は「人間の心」、認識の作用である。だから、呪文に効果がある、という話になる。真言もそうだ。

 言葉で言葉の世界を否定する、あるいは壊すという作業は、なかなか難しい。最後は直感というか、感覚で掴むしかない部分はあるが、人間は一つの言葉を作ると、そこから派生していろんな「言葉の世界」を作り上げる性質を持っている、ということだけを指摘して終わりたい。
by superkavi | 2007-06-18 14:34 | 思考の断片