詩・その他


by superkavi

生命散って~旧ブログより再録~


 「ありありと見る」というのは、故梶山雄一先生の著作に見られる言葉である。私も読み出したころは、何をいっているのかよくわからなかった。10年ほどたって、ようやく少しわかった気がしているところだ。
 梶山先生は「空の思想」(人文書院)という著作でマッカリ・ゴーサーラというアージーヴィカと呼ばれる学派の開祖と、ブッダのもとで不幸な境遇から悟りを得たある出家した女性の話を出して、この言葉を使われている。マッカリ・ゴーサーラは、一般には「宿命論」を説いたと仏教の文献では語られている。「人の運命というものは糸毬のようなもので、賢者も愚者も、善人も悪人も、運命の毬の糸が解けてなくなったときにはじめて、予定された輪廻転生を完了して苦から解脱するのだ、と。(中略)近頃、ひょっとしたらこれはとんでもなく偉い男であったのではないか、と思うようになった。自分の糸毬が解けてなくなった、ということがありありと見えてきたとしたら、それ以上のさとりなどあるわけがない。とくに立派なのは、この喩え話が抽象的な理論などをかけらも含まないで、マッカリ・ゴーサーラが毬の糸の解け終わったのをまじまじと見つめている、その具体的な姿をはっきり伝えている点である。」(「空の思想」より)。梶山先生はこのように「ありありと見る」ことを使われている。ブッダのもとで悟った女性のほうは、水が高いところから低いところへ流れ、そして消えていくのを見て悟ったという話であるが、それらを並べて「見たものが似ていなくともよいのである。肝心なことはどこまでありありと見たか、ということなのであるから。」と締めくくる。

 学生のときに読んで、ここのところはさっぱりわからなかった。たぶんに、現代日本の死に至る病「受験勉強&学歴社会」の影響であったのだろう。見たものが違うのに、「それでよい」というのは、当時、「答えは一つ」「正解を誰かに判定してもらう」「世間体に合わせる」という世界の私に理解できたはずもないのだ。

 このことを知るに、やはり「空」ということはなくてはならないキーワードであった。

 既成概念と言葉の実体化の世界に生きる我々には、灰皿は灰皿である。しかし、これに水を入れて飲めば、コップであって、花を挿せば花瓶である。サイコロをいれれば振り壷として使えるかもしれない。匂いがすべての犬にとっては、それは灰皿でも、コップでも花瓶でも振り壷でもないだろう。我々が普段「在る」と思っているものなど、これほどに不確かな存在でしかない。真実の世界のありようは言葉を離れている。おのずから備わった性質など持たないこと・・・それが「空」と呼ばれる世界だ。
 その「空」なるものに、我々が主観として「灰皿」という作用を与えるからこそ、灰皿は生起しているにすぎない。それは、現実といえど夢幻のようなものだ。
 世間がそれを「灰皿」と呼び、そして私がそれを「灰皿」と教育されている時点では、それは「灰皿」として「在る」と言われる。しかし、そんなもの、所詮は「約束事」にしか過ぎない。創造という世界は、その「灰皿」を「コップ」だと表現することである。そして、100人中、100人がそれを「灰皿」ではなく「コップ」だと認識した時点でそれは「コップが在る」という表現がとられる。その瞬間、「灰皿」は消えてなくなるのだ。
 鶏の鳴き声にしても、日本では「コケコッコー」であって、アメリカでは「カッカクードゥードゥー」。これはどちらも間違いとはされていない。本当にどう鳴いているのかは、鳴いている当の鶏しかわからないのに。
 「美しい」と「不細工」の境界線も所詮はこの「多数決の論理」でしか評価されにくい。人に合わせた価値観、ファッションといったものは、その社会における「安心」でしかない。一般に言われる生き方、人生とてそうである。

 人間として生きていくためには、社会の規範は必要である。それは一人で生きているのではないから仕方の無いところだ。数学で1+1=2であるけれど、これだって約束事でしかない。大きさも重さも違う、二つの林檎を足したところで、2にはならない。でもそれがないと、数学は進まない。

 それが「すべて」でないと知り、誰かに「判定」してもらう必要がないと知るとき、人は新しい世界を見る。「空」という世界は、すべてに「自性」がないという点で、すべてのものを等価にしてしまう。悪人が善人に転化するためには、この「空」の考え方がなければ成り立たない。

 誰かに教えられた生き方がすべてではないし、教えられた生き方が悪いというわけでもない。自分で「納得のいく」人生を探すしかないだけである。不幸を口にすれば、人間だれしも皆、不幸である。ある人の不幸を、その人から取り出して、僕の心に入れることができるなら、どちらが本当の「不幸」か判定できるかもしれないが、そんなことは不可能だ。だから、自分だけが不幸なのでもないし、幸せなのでもない。あの人に比べて自分がどうか・・・なんていうことは、これくらいあやふやで、不確かで、つまらないものだと思ってしまう。

 誰かが「かっこいい」というから、自分も一緒になって「好きになる」という恋のパターンは、他人と自分の生き方を比べて、その価値を他人の生き方に置くようなものだ。その人のことを「本当に」好きなら、他人の評価は、じつはどうでもよいことなのだ。

 概念と言葉の世界に、私が自分の世界を、言葉を使って作り上げること・・それが「詩」なのであるが、それはそのまま「私の見た、あるいは、感じた世界」である。しかし、その「詩」を読んだ人は、各々の世界をそこに投影して読み、感じる。それは私が見たものと似ていても、似ていなくてもよい・・というところか。その人がどこまで「ありありと感じたか」である・・とも置き換えられる。読み手にとっては「感じたこと」だけがすべてなのだから。

 梶山先生は「見えているものは、そして見えているものだけが言葉の最高の意味における『実在』なのである。」(「空の思想」より)とも書いておられる。「ありありと見る」ということを言い換えると、そういえるのかもしれない。

 自分の生き方を「ありありと見る」ことができるなら、それが本当の生き方だろう。それは自分の人生を「肯定」することだともいえる。自分の人生は、最後は自分でしか肯定しえないものだ。他人に評価されても自分が肯定できなかった人生になど後悔しか残されてはいまい。
 マッカリ・ゴーサーラの糸毬の話は、その、自分そのものの「肯定」の喩えだと私は思っている。後の仏教徒が「宿命論」などと書き残したのでそういう評価があるが、人生において、選択肢はいくらでもあったといったって、所詮、選べる道は一つなのだから、ないに等しい。多次元世界が同時に存在したとしても、選べる世界は一つなのだ。時間も戻せない。進んだ先で見たもの、選んだ先で見たもの、それが「ありありと見える」時、その人生は「肯定」され、迷いから解き放たれる。それを解脱といい、輪廻というサイクルから「消えてなくなる」唯一の方法だったにすぎない。人生が「肯定」ではなく「後悔」で終わるとき、人は「執着という輪廻」をぐるぐる回るだけなのだろう。

 ゴータマブッダの死期が迫ったとき、ある町を去るときに振り返って、ブッダが微笑んだという話がある。弟子がいぶかしんで理由を聞くと「これが見納めでろうから」という答えだった。私にとっては、このブッダの微笑と、マッカリ・ゴーサーラの糸毬の話は同じ意味を持っている。

 もがいて、あがいて、それで見えてくるものがあるのなら、それが最高の意味での真実である。どんな終わりを迎えるのであれ。闇の中で光を感じて月を知るように、人生の暗闇においてさえ、「ありありと見る」ことを諦めなければ、光を、月を、そして月を照らす闇の向こうの太陽でも、その心に描くことができるようになるだろう。
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by superkavi | 2007-06-19 13:35 | 思考の断片