詩・その他


by superkavi

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存在の孤独


 二人の間を繋ぐ大切なものは、「存在の孤独」だと答えた。
人は何も持たずにこの世に生まれ、何も持たずに消えていく。他人とつながっていたい、つながろうとして、けっきょくは独りであることを思い知らされるのが人生である。
食料の自給率が40パーセントほどといわれるこの国の惨状は、改めて言うまでもないが、しかし、飲食業界で廃棄される残飯の量たるや、それこそ天罰てきめんである。人は満たされれば飽き、そのものの大切さを忘れる悲しい生き物だ。
 愛するものが周りにいるときに、人はその大事さを忘れてしまう。失って気づくが、得るとまた忘れてしまう。
「耐え切れなくて手放すのは愛じゃない。」とは、あるドラマの台詞である。
なぜ耐えきれなくなるのだろう?

 永遠を誓い、その人だけをと思いながら、どうして別れてしまったり、他の人に目が移ったりするのだろう?

 すべて存在するものは移り変わる・・・お釈迦さんはそう言った。そうには違いない。移り変わらぬものなどない。ただ、それは「移り変わる」ということだけであって、「無くなる」ということを言っているわけではないだろう。この宇宙において「無」という状態は存在しないのだから。

 世界が滅びて、二人だけが残されたときに、その相手の存在だけが自分を認めてくれるすべてであるとなった時、人はその人に対する好悪を飛び越えて、そこに愛着を抱くのではないだろうか。
 多くのものに目を奪われるから、ものが見えなくなる。飢餓状態ならば、残飯などほとんど出ることはないだろう。それと同じことだと思う。
 二人の関係が停滞することを「倦怠期」と言うが、世界で二人ぼっちになったとき、倦怠期はあるのだろうか?そのような前提は、架空でしかないから、意味を成さないという指摘はあるだろう。
 でも、本当は、そういう想像や希求の欠落こそが人間の内面的な貧困にもつながっているような気はしている。
 相手に不自由しない、という人は、なるほど飽食であろうから、とっかえひっかえできるだろう。そのほうが良いという人が大半かもしれない。

 しかし、それは、自分が「残飯」になる可能性を秘めたままであることも事実である。どんな人もやがては老いる。それでも傍にいてくれる人はいるのだろうか?

 法然は、数多ある仏陀の中から「阿弥陀仏」を選んだ。いや、選ばされたのかもしれない。どちらにせよ、彼は「ただ一向に念仏すべし」と言い残した。阿弥陀仏にすがれと。そしてそれこそが、この悪世の時代の我々に残された救いの道であると。もはや自力では悟れない世界にいる我々の最後の道だと。

 存在の孤独というのは、淋しくて無力なものである。だからこそ、それを認めてくれる存在を欲する。言葉は矛盾するが、互いの間に存在の孤独があり、それを忘れることがなければ、「耐え切れなくて手放す」ということは起こらないのかもしれない。相手がたった一人の存在であるという認識、あるいは想像。そういうことが必要なのだろうと。それは「存在の孤独」に裏打ちされた希求でしかないかもしれないが、そのことを忘れて満たされてしまうとき、人は他のものに目を奪われる。
 それはそれで仕方のないことでもあるし、どうやったって修復が不可能な関係になることもあるだろう。

 あるいは、たった一人の存在だと思っていた相手が、他を向いてしまったときなど、どうすることもできないこともある。やはり「存在の孤独」である。

 どんな金持ちにも、どんな貧乏人にも、美男子にも美人にも天才にも馬鹿にも、死は平等に訪れる。そして「老い」も。容姿に縛られ、若さに縛られれば、すべてそれらは失われゆく存在であるから、当然、それの消滅とともに関係は終わってしまうだろう。

 相手の老いも、死も、許容できるとするならば、その相手しかいないのだ、という存在の孤独であろうと思う。よい意味での諦めというと語弊があるかもしれないが、それは「寛容さ」である。
二人でいても「孤独」であることもあるだろう。人生はそれほど甘いわけではないのだから。

 「貴人、人の情けを知らず」という先人の言葉がある。初めから持てるものなどありはしないのに、自分は持てるものだと勘違いすることから生まれる人間の傲慢である。

 淋しいから、他人に優しくなれるのだということも考えれば(それだけではないにしても)、存在の孤独が二人をつなぐものであったとしても、いいのだと思っている。
 浄土教は「恋に似ている」といわれることがある。恋焦がれることで、そこに到達するという面もあるからであるが、それは性欲や物欲ではなく、やはり、孤独から来る恐怖という面もあると思う。たった一人ぼっちに死んでいかねばならない恐怖。だからすがるものを人は欲する。

 追い詰められねば人は真実、理解もしないし見えもしない。そして心から望みもしないし、許しもしない。
 人の間と書いて、人間である。最低二人は必要だという昔の人の智慧だ。
「あなたがいないと、私は人間たりえない。」
 ダメ人間かもしれないが、互いにそういう認識の持てる相手ならば、結びつきは強いのではないだろうか。たとえそれが、世間一般で言う「恋」や「愛」ほどの派手さはないにしても。

 そんなことをつらつら思った。
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by superkavi | 2007-06-18 04:02 | 思考の断片

『視線』



心の瑕(きず)を消せる消しゴムがあるのなら
きみのためにそれを買おう
埋めることのできるパテがあるのなら
きみのためにそれを買おう
瑕ついたあの頃に戻れる機械があるのなら
きみのためにそれを買おう

どこに行けば買えますか
買うのにどれだけいるのですか
何か資格がいりますか
そう願うのは愚かしいことですか


君の胸にそっと手を当て
静かに見つめることだけでも


それもかなわぬ境遇ならば


これらの思いを紙に書き
あなたに届けと
紙飛行機にして飛ばしてみた


思い届かぬ距離ゆえに
紙飛行機は地に落ちて
天気予報の言うとおり
雨が
きたいを濡らしていく


出来ることというならば
紙飛行機に傘差し出して
心の雨からかばうだけ
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by superkavi | 2007-06-12 23:47 |

『キェルケゴール』


マフラーをくれた女がいた
下手だけれど一生懸命編んだの
というそれはお世辞にも上手くはなかったが
俺の心を暖めはした
一度も会うこともなくそいつは
他に好きな人が出来たからと消えた
俺たちは
はじめから解(ほつ)れていたに違いない


いっしょに暮らそうと
金はなかったが
俺は女にいった
あたしを殺す気?
とその女は俺を殺人者にしようとした
そいつは違う男と結婚するらしい
死んだのは
俺の心のほうだった


飛び込んだ女がいた
俺に飛び込まずに
レールが引き裂いたものが何か
俺は知らない
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by superkavi | 2007-06-12 01:58 |

『溺死』



気に食わないので
ジャスミンティーを投げつけてやった
水よりは好きさ
ちょうど2分が飲み頃なので
時間はばっちりだ
俺がふいてやるハンカチなど持たないことは
知っているだろう?
あたりまえだ
そんなものは
水を投げつける奴に言え
腐ってる奴に水をかけるぐらいなら
俺はお前に
ジャスミンティーを
ぶっかけておいてやる
悔しさに溺死して
生まれ変わるがいい
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by superkavi | 2007-06-11 22:51 |

叡智と知識


 キリスト教の異端と呼ばれたグノーシス。その文献として重要度の高い「ナグ・ハマディ文書」。岩波文庫から翻訳がでているが、その中の「説教・書簡」(ナグ・ハマディ文書Ⅲ)の「グノーシス主義と説教」という解説に、面白い話が載せられている。
 アレクサンドリアのフィロンの著作『律法書の寓意的解釈』からの引用として、次のような文章になっている。
「さてわれわれは次に探求しなければならない。なぜアダムは他のすべての被造物には名前を付けたのに、自分にだけはそうしなかったのか。われわれはこの問いにどう答えるべきだろうか。われわれ一人一人の中にある叡智は他のものを把握することはできても、自分自身をそうすることができないのである。ちょうどわれわれの眼が他のものを見ることはできても、自分自身をそうすることができないのと同じで、叡智は他のものを知解しても、自分自身を摑むことができない、叡智に言わせてみたまえ、彼は何であるのか、どんな性質のものなのか、霊なのか、血なのか、火なのか、空気なのか、あるいは何か別のものなのか。からだのようなものなのか、あるいはからだを持たないものなのか。(叡智は答えることができないだろう。)だから、神の本質を探求しようとする者たちは、あまりに素朴過ぎるということにならないだろうか。なぜなら、自分自身の魂の本質を知らぬ者たちが、いかにして全世界の霊魂について正確なことを知り得ようか。全世界の霊魂とは神のことであると考えられる。だから、アダム、とはすなわち叡智が、他のものに名前を付け、それらを把握するのに、自分自身には名前を付けないのは当然のことである。彼は自分自身と自分の本質を知らないのだから。」

 これと同じようなことが、仏教の思想4「認識と超越<唯識>」(角川文庫)に述べられている。
「暗闇の部屋に灯火を点ずれば、それまで見えなかった壁・天井や机・椅子などの対象が照らし出される。それと同時に、われわれは灯火自体をも見ることができる。灯火は対象を照らし出すと同時に、自己自身をも照らすのである。知識にはこの灯火と同様の性質がある、と唯識学派は言う。
 天秤量の一方の皿にのせた分銅は、他方の皿にのせた物体の重さを量るはたらきをする。しかし、分銅の正確な重さを知るためには、それを他の分銅によって量らなければならない。分銅の重さは分銅それ自体によっては知られない。すなわち、分銅は他のものの重さを明らかにするが、自己自身の重さを明らかにはしないのである。知識を灯火よりもむしろ分銅と同じ性質のものと考える学派もある。」

 この分銅の話は、前述の「叡智」の話と同じである。それに対し、仏教の唯識学派は、自分自身をも照らすのだ、といささか違う見解をもっている。
これは「空」を主張した「中観派」の主張だったと記憶しているが、灯火が闇を照らす、という場合、灯火が自身を照らすというなら、灯火の中にも闇があることになってしまう。灯火はいったい、何を照らすというのだろう・・・という記述も見た。
 
 フィロンの著作においても、インド哲学の主張する「分銅」の話も、言っていることは同じであって、洋の東西で同じ発想をもつのは偶然ではあるまい。人間の思考を突き詰めていけば、最後は「不可知」に行き着いてしまう。その「不可知」の先にあるものが「仏陀たちの認識の領域だ」と唯識学派の連中は言う。
 我々は、この宇宙の始まりも、人間の始まりも、自分自身が母体にいるころのことも、知りはしない。母の胎内にいたことを知っているのは「他者」によって教えられるからである。
他者性こそが、「人間」存在とも言える。恋をして相手を思う。それが唯一の相手であれば、比較する対象がないのであるから、「恋」という認識すらないのかもしれない。アダムにはエヴァしかなく、エヴァもまた、アダムしかいなかったのだから。このDNAの螺旋構造のような二人が人類のはじまりかどうかは知らない。
 我々は、とかく「比較」しがちである。認識の対象が多ければ当然のことであろう。しかし、仏教においては、それは「分別」(ヴィカルパ)ということになり、それは「業と煩悩」の生じる原因となる。たしかに言われるとおりだ。あの人が好きといい、別の相手に目移りしては、この人こそ本当の、だと軽々しく思う。どこに真実があるのか誰にもわかりはしない。「比較」がはじまるということは、美点や欠点、善や悪、という概念も生じてくるわけで、「あの人は、お金持ちで」とか「金のない男なんて」「優しかった」だの「冷たい」だの「男前だ」の「不細工だ」の、吟味が行われてくる。
 
 叡智、あるいは知識とは何であろう。出会った二人が罵り合って生きていくことではあるまい。お互いが欠点をもち、そして何かしら美点をもち、やがて老いて朽ちていくだけの存在であることの悲しみを分かち合い、その世界で共に生きて支えあう存在であると知ることも、「叡智」なのでないだろうか。
灯火はやがては消えてしまう。そこには再び闇が生じ、無明の世界が出現する。照らされた世界で罵りあうことの不毛さを思うと、絶対の静寂をもたらす闇の優しさを知ることも「叡智」と呼べるかもしれない。

 五蘊盛苦、すなわち人間存在である苦、ということを知ることが叡智であり、そこから生じてくる「他者性」を慈悲と呼ぶ。存在の悲しみを分かち合うことが出来るなら、人はもっと優しくなれるだろう。
 愛する人を見る事は、また、自分自身の姿を見ることになるとも言う。物欲が強ければ、それを満たしてくれる人、苦労人ならば、苦労をともにできる人。
 好きな服と似合う服が違う、ということはある。「彼を知り、己を知れば百戦して危うからず」とは孫子の言葉であるが、まったくもって正論である。しかし、それを「知る」ことが難しい。

 法然が念仏を広めたとき、「往生極楽をまめやかに思い入りたる人のけしきは、世間を一くねりうらみたる色にてつねにはあるなり云々。」と言ったらしい。また、「小児の母を頼むは、またく故を知らずただたのもしき心ある也。名号を信教せんことかくの如し。」ともいったようだ。往生極楽を思いやる人は、世間を白眼視するようでなければ、まことの往生はない、というようなことであろう。小さい子供が母を慕うことも、同じことで、ただ、母を慕う、という気持ちがあるだけである。
 誰かに恋をしたときに、他の異性がつまらぬものに見えたとき、それは誠の恋と呼ぶことは出来よう。痘痕も笑窪でなければ、誠の恋とは呼べない。
 いろいろと分別から迷いが生じ、他の異性に眼が移り始めるのは、もはや打算や比較も働いているのである。人間であり、生物である以上、生物として快適に生活できる環境を選ぼうとするのは、仕方のないことかもしれない。
しかしながら、それは分別、全一の世界からあれこれと分けてしまい、迷いを生じさせる世界を作る。それを知ることが叡智であり知識であるのだけれど、そこから、全一の世界にもどるには、信心、すなわち「思い込む」ということが必要になると思う。知り、そしてそれを越えていく。最後は叡智も知識も越えて、認識を具現化するための生き方。
「愛するということは、愛し続けること。信じることとは、信じ続けること。」とは歌手の谷村新司さんの歌の歌詞であるが、最後はそれしかないのではないか。
もっとも、相手の意思は尊重せねばならない。押し付けはまた、己の蒙昧な心の産み出した煩悩なのだから。
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by superkavi | 2007-06-11 13:24 | 思考の断片

『穢土情歌』


この世界を捨てて 汚濁にまみれるこの世界を嫌って
多くの人は星の彼方に 新しい世界を求めた
清浄なる愛を求めて


この世界で一番不幸でいるからそれを目印にしてと
僕に告げた君を探して この世界に這いつくばる


見捨てられた桜の樹の枝に 女が「怨みます」と
絶望が流れる河に 女が「探さないで」と
希望というネックレスを引き裂いて 男が「信じない」と
それがこの世界の様


もう諦めろと 白いカラスが歌うけれど
僕はまだ 世界一不幸ではないから大丈夫と言い聞かせ
君を探す


苦しむ君を思い 寂しさに打ち震える君を思い 
耐え難いこの世界の有様に 流した涙を宝石にして
君に渡そう
それはきっと 清浄なる愛の世界では手に入らない
深い色をたたえた たった一つの


今日も日が暮れる 悲しみの夜が来る 寂しさに震えても涙しても あきらめない

この寂しさがいつか 君と抱きしめ合うそのときに 
僕の心を詩ってくれるであろうから
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by superkavi | 2007-06-11 13:19 |

『魂の牢獄で』


男は魂の牢獄で一人 
鉄格子の窓から月明かりだけが

自分は何をしてきたのだろう
ずっと捜し求めてきた 
叫んできた愛が
今ほど遠く感じたことはない

つながれた男は孤独で 
すでに若くもなかった
世界の暗闇の中で魂の牢獄に囚われ
自分の人生の徒労を嘆く

詩に織り込んでもそれは届かず
心から与えても相手には響かず
こうして一人牢獄に 
無力に零れた涙一筋

そっと差し込む月光が頬を撫でる 
窓からかすかに風が囁く

牢獄の片隅でクモがこう語る
ここは魂の牢獄 
ではおまえのいままではどうなのだ
嘆くおまえの人生と 
この魂の牢獄になんの違いがあるというのか
おまえの心が 魂が 絶望が作り出す牢獄 
ただそれだけのこと
わたしが自ら吐き出す糸の上を 
自由に行き来するように
おまえも心の自由を得るがよい


涙に濡れた男の瞳に一筋の月明かり 


手には届かなくとも見ることはできる
こらえ、信じて、それでも愛が遠くても駄目でも
それでも耐えてひたすらに
月光の中に身を置くように 
愛の光に身を横たえよう

魂の牢獄にいても
そこから抜け出ても
愛がなければどこも牢獄なのだから 

この牢獄の中でさえ月の光が差すと気づいたように
牢獄に自らをつなぐのは 
自分自身なのだということを
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by superkavi | 2007-06-09 15:08 |

『流星群』


心が切り裂かれ涙は星になって
君は呟いたね 
何を愛していたのだろうと

星になった君の涙を 
僕が一粒指で弾いて
未来に零れる流れ星に変えた

満天の星空は君の美しい涙
とめどなく頬を伝う星たち

僕は呟いた 
それでも愛していたのでしょうと

君の嗚咽が星を創る 
僕がまた 
一粒指で弾くと
すべての涙が静かに未来に流れていった

漆黒の闇を見て 
愛はないのねと 
また涙を一滴流して君は

暗闇から月が君を照らしてこう諭した
暗闇の向こうに月は輝いているのだよと

僕は君の一粒の涙を指ですくい
口に含んで囁いた
泣きたいときは泣けばいい
君の涙が枯れないように
愛もまた 
枯れることはないのだから
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by superkavi | 2007-06-09 15:02 |

『幻想回向』


鍵盤が風に舞うとき
心の奏でる音色がある
生まれなければと嘆くには遅すぎて
涙を宝石にして差し出したあの日
音律だけがいくつも身体を打ち抜いた

もう戻らない帰らない
かすんだ心で先は見えない
搾り出した叫びで
掴んだものを抱きしめる
ある人はそれを思い出と呼び
ある人はそれを未来と名づけた

魂がどこから来てどこへ行くのか
知りもしないし知りたくもない
降り注ぐ音の色彩が
無色透明のこの魂へと
ただ静かに染め付けて

誰か弾くピアノの音
螺旋の捻じれを駆け上り
人であるものをバラバラにして
宇宙(そら)へ還そうとする
それのみ我が傍らにありて
零れる何かを拭っていった
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by superkavi | 2007-06-06 13:40 |

夜空を剥ぎ取って
この心を包むことができたなら
あなたの宇宙(そら)を飛べたでしょうか

星をつかまえて
髪に飾ることができたなら
果てしない大海原を
あなたまで導いてくれたのでしょうか

誰もいない真っ暗な海で
聴こえるのは悲鳴にも似た風の音
投げ出した足の上に横たわる記憶は
波間に流され見えなくなる

帰るべき場所は砂に埋めて
船出した日も遠く
信じるという櫓は折れ
それでもこの手で掻き寄せる
この船を壊して波に飲まれれば
あなたを独り占めできたのでしょうか

波か涙かもうわからない
一つの星が流れていく先に
あなたがいると誰かが囁く
手放してはならない大切なものならば
この愛に泳ぎ疲れても



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ZARD「この愛に泳ぎ疲れても」のオマージュ
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by superkavi | 2007-06-05 04:33 |